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シカゴ・ブルースラウンジリスト (1985年当時のデータ)

■ウエスト・サイド

★マリーズ ラウンジ Mary's Lounge
住所:南ポラスキ通り S. Pulaski 358
収容人員:40
チャージ:$2
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンからタクシーで20分


寸評: ウエストサイドの老舗で、毎週日曜日にライブがある。 ウイリー・ケントはここの大将格で、ウエストサイドのラウンジでは知る人ぞ知る老舗である。オーナーの奥さんがMaryさんで、弟が隣でバーベキュー屋を開いていた。ここでバーベキューリブを買ってラウンジでビールを飲みながらブルースを聞くという、とても贅沢な時間が過ごせた。ウエストサイドの音が聴きたかったらここがおススメ。何故ならここはウエストサイドブルースマンの詰所のようになっており、時間の空いた人や通りがかりに立ち寄るブルースマンが多いからだ。

ただし、ある時店の前に駐車して、帰る時によく見たら後ろからド~ンと当て逃げされて排気パイプがへこんで車内にガスが充満し、窓を全開にして帰ったことがある。南ポラスキ通りは殺人事件もたまにあるので、危険なことに違いはない。

マリーズの名物ブルースマンはハウリング・ウルフの後継者テイル・ドラガーで、卑猥なド・ブルースを歌わせたらこの人にかなう人はいない。ウルフの物まねというよりも、ウルフ・スタイルを取り入れ、客との掛け合いを楽しみながら生まれる即興のブルースがこの人の持ち味だった。自分の禿げ頭のことを面白おかしく歌った”マイ・ヘッド・イズ・ボールド”はジミー・ドーキンスのプロデュースしたレリック・レコードから出したこの人の十八番で、ラウンジやデルタ・フィッシュ・マーケットでは必ず歌っていた。何時もジンやラムのポケット瓶に詰めたコーンウイスキーの密造酒、”ムーンシャイン”をジーンズのポケットに忍ばせていて、ステージの合間に飲んでいた。マイクを男性自身に見立ててへそのあたりでクネクネさせ、カウンターに上がったり、床に寝たりしながらワイセツなブルースを歌うこの人を知らないとウエストサイドではモグリだといわれる。ボストン・ブラッキーというギタリストをステージのギャラで揉めて拳銃で撃ち殺し、正当防衛ではあったが刑務所に入り、出所後”プリズン・ブルース”などという凄まじい内容のブルースを歌っているMr.ブルースである。

よく顔を出すブルースマンはキャリー・ベルの従兄弟であるギタリストのバーノン・ハリントン、マイケル・コールマン、スマイリン’ボビー、リトル・ウルフ、ジミー・ドーキンス、ジョニー・クリスチャン、チコ・チズム、ジュータウン・バークス、マック・トンプソン等で、エディー・テイラーの息子がドラムを叩いていて、親父のエディーもよく来ていた。

★マジェスティックス Majestic's Lounge
住所:南ポラスキ通り S. Pulaski 1422
収容人員:200
チャージ:$2
ライブ時間: 9PM~4AM
交通: ダウンタウンからタクシーで25分 バスで西マディソン行でポラスキー通り下車、南ポラスキー行きで14番通り下車、南へ徒歩で5分西側

寸評: よく顔を出すブルースマンはジョニー・クリスチャン、バスター・ベントン、タイロン・デイビス、ジェームズ・カインド、R・C・ロビー、ジョニー・B・ムーアで、この近辺ではかなり大きなラウンジ、ステージも高くできていて広い。ここのハウス・バンド、オアシス・バンドのリーダーが83年に撃ち殺されたことからもわかるが、南ポラスキ通りはとても治安が悪かった。12時頃までは客の入りが悪いのでバンドもあまり気を入れて演奏しない。1~2時ごろ、ほかのラウンジで仕事を終えたブルースマンが続々とやってきて飛び入りのアフターアワーズ・セッションが始まり、面白くなってくる。デルマーク・レコードのオーナー、ボブ・ケスターは、ウエストサイドではここが一番面白いと言っていたが、なるほど酔っ払いのおばちゃんがステージに上がろうとして店員に止められ、店長を出せと言って怒鳴り散らして連れに止められたり、ビデオをとっている時、”お前何をしとんのや!”と酔っ払いのおじさんに絡まれたりしたことがある。たまにここでライブをやっているジェームズ・カインドは、シル・ジョンソンばりの高音の出るソウル・シンガーで、シングルも出している。デルタ・フィッシュ・マーケットでも見たことがあり、ドングリ眼をギョロリと動かして睨まれると怖そうだが、歌は中々いける。

★クイーンビーズ ハウス・オブ・サウンド Queen Bea's House of Sound
住所:西マディソン通り 2742 W. Maddison 2742
収容人員:40
チャージ:無料
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンからタクシーで15分、また西マディソン行でカリフォルニア通り南、下車東へ徒歩2分

寸評: ウエストサイドの当時ベストソウル&ブルースシンガーだったジョニー・クリスチャンの根城である。ウイークエンドは日替わりのブルースバンドが登場、ここもブルースマンの立ち寄り場所で、女性シンガーのメリー・レイン、B.B.ジョーンズらが顔を出す。ジョニーのライブに飛び入りで参加したバスター・ベントンのビデオを撮っていた時にストロボが焼き切れて、せっかく”スパイダー・イン・マイ・ステュー”をやってくれたのに、真っ暗になってしまった苦い経験がある。
 よく来ていたブルース・シンガーのジェリー・タイロンはアーカンソー出身、小さい頃家出してセントルイスでゴスペル・グループに入いり、ベースを弾いていた。その後一度故郷に連れ戻されたあとまた家出、シカゴに移住し、ジミー・リードやウルフのバンドでドラムを叩いていた。ジミー・リードに感化されたハーモニカは片手間にやっている程度だが、ウエストサイドのジョニー・テイラーと言われるほど声も顔もよく似ていて、取り上げる曲も彼のものが多かった。ジミー・ドーキンスのレコード会社"BLUES&SOUL"からWOMAN LOVES WOMANというシングルを1枚出しているが、プロデュース次第では表面に出てくる可能性がある実力派と思った。ジェームズ・コットンバンドのギタリストマイケル・コールマンは彼とコンビを組んで時々ライブをしていた。

ジョニー・クリスチャンのバックバンド、シカゴ・プレイボーイズのギタリスト、サニー・ノリスは”デッド・アイ”と呼ばれ、小柄だがタイトなギタリストで、多くのブルースマンをサポートしてきた。なんと刑務所にいた時にあのフェントン・ロビンソンに逢い、かなり影響を受けたそうで、ソウルやファンキーな音作りも特異な実力派だった。確実なリズム、ソウルフルなフレーズは聖歌隊で歌って鍛えたボーカルに加えて一流ミュージシャンの素質を備えていると思った。


★ミッシェルズ Michelle's
住所:西マディソン通り 2742 W. Madison
収容人員:30
チャージ:無料
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンからタクシーで20分、またバスで西マディソン行でセントラル通り南、下車西へ徒歩で5分くらい戻り、南側の角

寸評: よく顔を出すブルースマンはウイリー・ケント、ジョニー・クリスチャン、ジョニー・B・ムーア、メリー・レイン、メルビン・テイラーなどで、楕円形のカウンター1つしかない小さな店だが、ここもウエストサイドのブルースマンが出入りしている貴重な店だ。メリー・レインはウエストサイドの実力派ブルース・シンガーで、自作の”Candy Yams”-Appointment with the blues-はウエストサイドの女性シンガーは必ず歌うというセクシーな内容のブルースである。交通事故に遭って入院した時入院費捻出のためのチャリティーコンサートが行われたほどの有名人。この辺りは治安が良くないが、酔っ払いに厳しいオーナーが居て心強い。

★ローサズ・ラウンジ Rosa's Lounge
住所:西アーミテージ通り 2420 W. Armitage
収容人員:50
チャージ:2ドル
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンからタクシーで15分、またバスで西アーミテージ行でキンボール通り下車、西へ徒歩で1分北側

寸評: 主な出演者はホームシック・ジェイムズ、キャリー&ルリー・ベル、ジョニー・セイルズ、メルビン・テイラー、ビリー・ブランチ、ジョン・リトル・ジョン ホームシック・ジェイムズと結婚したイタリア系移民のROSAさんの店、息子のトニーはドラマーだ。1985年にできた新しい店、入るとすぐビリヤード台があり、その奥にカウンターとステージがある。以前ビリー・ブランチ&SOBを組んでいたルリー・ベルはここを根城にしていた。

その他
★デルタ・フィッシュ・マーケット Delta Fish Market
住所:南ケジー 228 S. Kedzie 228
チャージ:無料
ライブ時間: 2PM~102AM
交通: ダウンタウンからタクシーで15分、またバスで西ジャクソン行でケジー通り下車、交差点角

主な出演ミュージシャンはヒューバート・サムリン、テイル・ドラッガー、サム・レイ、ジョン・リトル・ジョン、B.B.ジョーンズ、キャリー・ベル、ブリューワー・フィリップス、デトロイト・ジュニア、サニー・ランド・スリム、エディー・テイラー、リトル・ハウリン・ウルフ、ジュー・タウン・バークスなど、あのウイリー・ディクソンも出演したことがある。初めてビデオカメラを抱えた’84年の5月、車から出てカメラを構えた途端に、車を止めたそばにいた若い黒人の兄ちゃんは
”カメラで撮っちゃだめだ。”というので、”なぜ?僕らは記録を取りに来たんだ。”といっての通じず、”そこで待っていろ!今から用事で帰らなきゃならないが、すぐに戻ってくる。カメラをまわしちゃだめだ。いいな、戻ってくるからな!”などといって車に乗り込んでいった。
まあ、なんとかなるわいと思い、そのままビデオを撮っていたらなんとキャリー・ベルが登場、彼に、”日本に来た時に六本木のピットインで見たよ。”というと顔をクシャクシャにして喜んでくれたのを覚えている。
今はもうなくなってしまったが、ビデオを見るたびに今は亡きエディ・エイラーやウイリー・ディクソンの笑顔が蘇ってくる。

★マックスウエル ストリート Maxwell Street
住所:14街&ホルステッド 14th&Halsted
チャージ:投げ銭
ライブ時間: 毎日曜日 10AM~2PMごろ
交通: ダウンタウンからタクシーで10分、またバスでホルステッド通り14th下車、交差点角

よく出ていたのは太っ玉かーさんとよれよれ親父のゴスペル一家、ハウンドドッグテイラーによく似た兄ちゃんとブラインド・レモン・ジェファーソンのような眼の悪そうな(実は少し見えていて、お金を入れずに立ち去ろうとするとジロッと睨む)おやじのデュオ、ストーニー・B・ブルース、ビッグ・ボイス・オーダム、マニュエル・アーリントンらで、デルタフィッシュ・マーケットに比べると白人のブルース好きも多かった。以外にハーモニカプレイヤー(現地ではハープ、ハーピストとは言わない)はいなかったですね。

元祖マックスウエルストリートは残念ながら1994年に取り壊されてしまい、現在の場所CANAL ST沿いに移動している。今のマックスウエルは、お客も出店者もラティーノが多く、売られているCDもラテン系ばかりだそうで、昔のマックスウエルを知っている人に言わせると以前のような活気はなくなってしまったそうだ。

■サウス・サイド
★チェッカーボード・ラウンジ Checkerboard Lounge
住所:西43丁目通り 423 E.43rd
収容人員:80
チャージ:$4~5
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンからタクシーで15分 地下鉄南方面行43番で下車、徒歩10分

寸評:バディ・ガイ、フィル・ガイ、43rdブルースバンド、ジュニア・ウエルズ、レフティー・ディズ等がよく出ていた。シカゴ黒人街へのブルース・ツアーは主にここが中心で、観光客を乗せたマイクロバスがよく止まっていた。有名人も顔を見せ、ミック・ジャガーやテニスのマッケンローも来たことがあるそうだ。お目当てはバディ・ガイだが、彼はほとんど出てこないで、奥の部屋でポーカーに興じていることが多かった。ハウスバンドの43rdブルースバンドが長々しく演奏し、やっと出てきたと思ったらバディーは”これがジョン・リー・フッカーのフレーズで、これがライトニン・ホプキンズの18番の出だしだ。みんな知ってるかい?”などと言いながら物まねをしたり、茶化したプレイをしたかと思うとすぐに引っ込んでしまう。こちらは名曲のファーストタイム・アイ・メット・ザ・ブルーズやホールド・ザット・プレインなど、70年代の熱い演奏が聴きたかったが、一度も聴けなかった。ジュニア・ウエルズはいつも酔っぱらっていて、ハーモニカの演奏は聴いたことがない。逆に白人街のビディー・マリガンで10ドル払ってみたほうがいいとのことだったが、結局彼らのまともな演奏は見なかった。

★テレサズ・ラウンジ Theresa's Lounge
住所:西43丁目通り 603 E.43rd
収容人員:100
チャージ:$2~3
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンからタクシーで15分 地下鉄南方面行43番で下車、徒歩10分

寸評:チェッカーボードより2ブロック東の湖寄りにある、倉庫を改造したような造りでサウスサイドではチェッカーボードと並ぶ老舗のラウンジ。以前は南インディアナ通りにあったが、ビルのオーナーに追い出しを食らって閉店、84年にこの場所に移転した。店内は日宅的明るい。マディーウオーター・ジュニアは、真偽のほどは不明で、歌だけの人。バイザー・スミスのビデオを撮っていたら金を要求された。もちろん払ってはいないが。酔っぱらったサミー・ローホーンにも会えた。主な出演ブルースマンはマジック、スリム、サミー・ローホーン、バイザー・スミスなど

★ニュー・ラベン・ラウンジ New Raven Lounge
住所:8822 南ストーニー・アイランド 8822 S. Stoney Island
収容人員:60
チャージ:無料
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンからタクシーで25分 ダウンタウンからストーニー・アイランド行きのバスで88丁目下車、徒歩2分

寸評: 入口の両側にバー・カウンターが並び、中央に曲がりくねった変形のテーブルがあるためステージが見にくい。しかし小奇麗なラウンジで、バーメイドの愛想も良い。毎週水曜日のみライブがあった。当時の若手ハーモニカプレイヤー/ボーカリストのビリー・ブランチの根城で、サウスサイドのNo.1バンド、サン・オブ・ブルースがハウス・バンドだった。彼の歌は少し正直すぎる感じだが、ハーモニカはリトル・ウオルターとウオルター・ホートンを意識した、躍動感のある響きが特徴で、時にシュガー・ブルーのように細分化された高音でうねるようなリズムのノリを見せていた。ボーカルはベースのJ.W.ウイリアムズのほうが聴くべきものを持っていた。全体的にはまとまった中堅バンドといった印象だった。

★リーズ アンレディッド ブルース・ラウンジ Lee's Unleaded Blues Lounge
住所:7401 南シカゴ通り 7401 S. Chicago
収容人員:60
チャージ:無料
ライブ時間: 6PM~12AM
交通: ダウンタウンからタクシーで20分 地下鉄南方面行きで74丁目下車、バスでシカゴ通り下車、徒歩5分

寸評: 主な出演ブルースマンはバディー・スコットとリブティップス、ストーニーB・ブルースバンド、リトルアル・トンプソン カウンターが2本入り口から両側に広がっていて、立て込んでくると中央にテーブルが出る。ミセス・リーの経営する、サウスサイドでは古くからライブをやっている店である。彼女自慢のチリビーンズはうずら豆と豚のひき肉をコトコト煮込んだちょっぴり辛いソウルフードで、クラッカー付が毎週月曜に無料でサービスしていた。バディー・スコットはサウスサイドを中心に活動していてビヤ樽のような体をスーツに詰め込んで、愛用のギブソン335を弾いていた。アリゲーターの”リビング・シカゴ・ブルース”にも登場、シングルも”ビッグ・レッグ・ウーマン”等多く出している。

★ブレイディーズ・ラウンジ Brady's Lounge
住所:525 東47丁目通り 525 E. 47th
収容人員:40
チャージ:無料
ライブ時間: 9PM~4AM
交通: ダウンタウンからタクシーで20分 マーチン・ルーサー・キングドライブ行きのバスで47丁目下車、東へ徒歩5分、南側

寸評: 主な出演ブルースマンはビッグ・ダディ・キンゼイ&キンゼイ・レポート、ゾラ・ヤング、ジョニー・クリスチャン、マイケル・コールマン、メリー・レイン 
酒屋の奥がラウンジになっている珍しいところで、ドリンクの値段も安い。奥の突き当たりにステージ用のスペースがあり、楽器が所狭しと置いてある。ウエストサイドのブルースマンも時々サウスサイドに流れてくるが、普段から両サイド共それぞれの縄張りを無意識に感じ取っていて、特にサウスからウエストへの流れは珍しかった。
ミシシッピー訛りの強烈なインパクトを与えるデルタ・ブルースを土台に、ハウリン・ウルフやマジックサムなどの泥臭くねっちりしたリズムや音つくりを好むウエストサイドに対して、サウスサイドのそれは警戒でモダンな音が好まれ、B・B・キングスタイルのバンドブルースが中心だった。フロアで踊る客をあまり見ないのも、サウスサイドの特徴だった。

★カドル・イン・ラウンジ Cuddle Inn Lounge
住所:5317 南アッシュランド通り 5317 S. Ashland
収容人員:40
チャージ:$2
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンからタクシーで20分 南アッシュランド行きのバスで53丁目下車、南へ徒歩5分、東側

寸評: 主な出演ブルースマンはマジック・スリム 入ってすぐ左側にバー・カウンターがあり、小部屋につながっていてビリヤードやゲーム機が置いてある。ここで飲んだり遊んだりする限りはチャージなし。奥へ続く通路の中ほどに係員が座っていて、通路をふさぐチェーンの番をしている。ライブを見たければここで2ドル払う仕組みになっているのだ。ステージの手前に柵で囲ったダンス場がある。
白人街では客に愛想を振りまくこともあるマジック・スリムだが、サウスサイドに戻ると親分風を吹かせているようで面白い。取り巻き連中やハウスバンドに好きなようにやらせていた。見た感じではラティーノ街との境界線にあるせいか、少し危険度が高いような気がする。ここよりさらに南へ2ブロックいくとラッキー・レディ・ラウンジ(Lucky Lady Lounge 5533 S. Ashland)があり、たまにライブがある。

★ロニーズ・スカイ・ラウンジ Lonnie's Sky Lounge
住所:633 東75丁目通り 633 E. 75th
収容人員:300
チャージ:$5~8
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンからタクシーで25分 地下鉄74丁目下車、徒歩5分、チャーチズ・チキンの隣り

寸評:主な出演ブルースマンはアルビン・キャッシュ、マヌエル・アーリントン、リトル・ミルトン、ジーン・キャロル、タイロン・デービス、ハイファイ・ホワイトなど。サウスサイドでも大きなラウンジの一つで、クローク・ルームも有る。ステージ横にも別室があり、バーカウンターがついている。ミシシッピーから戻ってきたマッキンレー”ソウル”ミッチェルが根城にしていた。彼ほどの人でも客数10人以下という時もあった。マイクなしで広い会場を"Are you with me?"(聴いてるかい?)と問いかけながらバラードを歌う姿に感動したのを覚えている。いいプロモーターがいれば、オーティス・クレイのように無名ながら来日し、人気を取り戻せたかもしれなかった。埋もれたまま他界したのは惜しまれる。
マヌエル・アーリントンはB・B・キングの司会もこなすセクシージョークの名人。何年か前にシカゴのエンターテナー・オブ・ジ・イヤー(MC)に選ばれているが、歌はお世辞にもうまいとは言えなかった。
サウスサイドで一番人気の有るMCは”HIFI”ホワイトだろう。”OUTRAGEOUS!”(すっげ~!)と異名を取るほどの派手なオカマ衣装を着て登場し、マヌエルを上回るセクシージョークと漫才で客の度肝を抜く。物まねも得意で、さしずめ日本ならコロッケさんのようだ。第2回ブルース・フェスティバルでは会場を爆笑の渦に変えていた。ソウルシンガーとしてシングルを出したことも有る。
アルビン・キャッシュは知る人ぞ知るソウルシンガーだが、MC業も多く、タイロン・デービスとよく仕事をしていた。そのタイロン・デービスは、都会派ソウルで成功し、シカゴの黒人街では彼の歌をカバーしないバンドはないくらい程売れていた。

★ブーツィー Bootsy
住所:5525 東ステート通り 5525 S. State Street
収容人員:50
チャージ:$2
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンからタクシーで20分 バスで南ステーツ通り行きで55番街下車、南へ徒歩2分

寸評:主な出演ブルースマンはアーティー・ホワイト、マヌエル・アーリントンなど。
長いカウンター1本だけの小さな店で、アーティー・ホワイトの根城。彼はリトル・ミルトンタイプの熱唱型ブルース&ソウルシンガーで、スローブルースをじっくり歌い上げるのが得意なパターンだった。”RON”レコードからデビューアルバムを出している。そのシングルカット”アイ ニード サムワン”はかなりヒットしたらしい。

★ベル・エール・ラウンジ Bel Aire Lounge
住所:3327 東135丁目通り ロビンス イリノイ 3327 E. 135th Robbins, Il.
収容人員:150
チャージ:$2~5
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンからタクシーで50分 

寸評:シカゴ市の南、境界線の近くにあり、市内からバス、地下鉄では行けない。ここロビンスは黒人居住者が90%以上の小さなコミュニティーで、1987年3月に発表されたルーズベルト大学の都市学者ピエール・ディバインのレポートによると、全米で10番目に貧しい町で、’85年の平均所得は6500ドルあまりだった。
バスター・ベントンが根城にしているラウンジで、毎週金曜日に彼のライブがあった。土日は昼間からウエストサイドのバンドが演奏していた。交通事故で足を切断する前のバスター・ベントンは元気にウエストサイドを回っていたらしいが。杖がないと歩けなくなった彼は主にゲスト出演が多く、見ていて痛々しかった。昔のヒット曲である”スパイダー・イン・マイ・ステュー”や”デンジャラス・ウーマン”はやらなくなっていて、”ハイウエイ94”や”ホワイ・ミー”、”リーン・オン・ミー”などやアルバート・キングの歌が多かった。歌は健在だがギターワークが少しゆっくりになっていた。何回目かのセットでつめきりを店から借りてプッチンプッチンとステージでつめを切っていたのが、可愛らしくておかしかった。仕草や目の動きが子供っぽいが、落ち着いた静かなヒトであった。ゲスト・ミュージシャンにリンゼイ・アレクサンダーという40歳くらいのギタリストがいて、パンチのあるブルースを歌っていた。

■ノース・サイド
★ブルース B.L.U.E.S.
住所:2519 北ホルステッド通り 2519 N. Halsted
収容人員:80
チャージ:$2~5
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンからタクシーで15分 北ホルステッド通り行バスでフラートン通り下車、徒歩5分東側

寸評:主な出演ミュージシャンは、ジミー・ジョンソン、サニーランド・スリム、ジョニー・リトル・ジョン、ジミー・ロジャース、パイントップ・パーキンス、ビリー・ブランチ、ジョニー・B・ムーア、ディー・ショウ、オーティス・クレイ、バレリー・ウエリントン、マジック・スリム、リトル・エド、オーティス・ラッシュ、フェントン・ロビンソン、サン・シールズ、ジュニア・ウエルズ、シュガー・ブルーなど

オーナーのビル・ギルモアはとてもブルースに詳しく、ブッキングがしっかりしているようで、同じミュージシャンが決まった曜日に続けて出ることはさせず、1カ月通っても同じブルースマンが重なることはほとんどなかった。キングストンマインズと提携してスタンプを押してもらった客が両方を行き来して楽しめる協定を作っている。パブとして落ち着いて飲める、いいブルースバーだった。

★ブルース・エトセトラ B.L.U.E.S.ETCETRA
住所:1124 東ベルモント通り 1124 W.Belmont 
収容人員:100
チャージ:$2~5
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンからタクシーで20分 Howard行き地下鉄でベルモンテ下車、東へ徒歩1分北側

寸評:主な出演ミュージシャンはB.L.U.E.S.とほぼ同じで1987年にオープンした同系列の店。音響設備がしっかり
していて、ゆったりとブルースを楽しめる。クレジットカードも使える。


★キングストン・マインズ KINGSTON MINES
住所:2548 北ホルステッド通り 2548 N. Halsted
収容人員:200
チャージ:$2~5
ライブ時間: 9PM~4AM
交通: ダウンタウンからタクシーで15分 北ホルステッド通り行バスでディバーシー通り下車、南へ徒歩3分西側

寸評:主な出演ミュージシャンは、ブルースと同じで、ほかにロニー・ブルックス、マイティー・ジョー・ヤング、ココ・テイラー、ディオン・ペイトン、ドナルド・ウッズ、ケイシー・ジョーンズなど

B.L.U.E.S.と同じホルステッド通りに面した”ニュータウン”と呼ばれる地域にある。この辺りの人種構成は白人が5割、その他アフリカ、アジア、ラテン、中東など雑多で、夜一人でも歩いていても大丈夫な町だった。この店も毎日ライブが楽しめる点が短期旅行者にはウレシイ所。ただ、ウイークデーのミュージシャンはほぼ決まっており半年から1年以上経っても同じ曜日に出演するミュージシャンもいたので2,3度いくと飽きてしまった。贅沢な話だが、ブルース雑誌”JUKE”の特派員と紹介したので、嫁のKYOKOと2名、1年間入場料フリーのカードをオーナーからもらったので、暇があればよく通った。
入り口を挟んで2箇所ステージがあり、金、土曜日に一流ミュージシャンが出演する時は彼らのブレークタイムにもう一箇所奥のステージで白人のブルースバンドが演奏していた。店側はサービスのつもりだろうが、音がロックでシャッフルもたたけないようなドラマーが延々長いアドリブをやったりするバンドにはちょっと興ざめだった。メインのバンドが30分、白人バンドが40分などというやり方も首を傾げざるを得なかった。この間10ドルくらい飲み物を交わされてしまい、この点ではB.L.U.E.S.のほうが良心的だった。


★ワイズ・フールズ WISE FOOLS
住所:2270 北リンカーン通り 2270 N. Linloln
収容人員:150
チャージ:$2~5
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンからタクシーで15分 北リンカーン通り行バスでアーミテイジ通り下車、南へ徒歩5分

寸評:主な出演ミュージシャンは、ジミー・ジョンソン、シュガー・ブルー、オーティス・ラッシュ、リトル・エド、バディー・ガイ、ジュニア・ウエルズ、など

ニュータウンから南に少し下ると、ダウンタウンから北西に伸びているリンカーン通りにぶつかる。この洒落た町並みにマッチした赤レンガで正面を飾った建物が、古くから白人街でライブ・ブルースを提供してきた”ワイズ・フールズ”である。’84年に経営難で一時閉鎖、存続が危ぶまれていたが’85年夏に再開した。客層がほとんど白人のせいか、ブルースショー的な雰囲気を楽しむにはよいパブで、ローカルのロックバンドも出ている。

★リリーズ LILLY'S
住所:2513 北リンカーン通り 2513 N. Linloln
収容人員:60
チャージ:随時
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ワイズ・フールズkらさらに北へ500メートルくらい上がった東側

寸評:主な出演ミュージシャンは、サニーランド・スリム、ヒップ・リンクチェイン、デトロイト・JR、シュガー・ブルー、バレリー・ウエリントン、アーウイン・ヘルファー、ビッグタイム・サラ、エディー・クリアウオーターなど

小さなパブ風の店で、入口近くにあるステージにアップライトのピアノがあるが、ピアノ&ギターのデュオが出演するのが特徴。チャージはないが、ステージが終わるごとに籠を持ったメイドがチップを要求して回るので、気前よく入れていると結構使ってしまうが、気に入れなければ入れなくてもよい。飲み物は高めだった。

★U.S. BLUES 
住所:1446 北ウエルズ通り 1446 N. Wells
収容人員:50
チャージ:$2
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンからタクシーで10分 またはYMCAホテルから歩いて北に20分

寸評:主な出演ミュージシャンは、バイザー・スミス、デイトラ・ファー、ジョニー・B.ムーア、メルビン・テイラー、ボニー・リー、ゾラ・ヤング、サン・シールズなど

この辺りはオールドタウンと呼ばれるダウンタウンから北に約3キロ離れた地域で、蝋人形館、古道具屋、パブなどが立ち並ぶ、東京の浅草的な雰囲気が楽しめる観光スポットでもある。1871年、死者300人、被災者9万人を出したシカゴ大火ではダウンタウンの大半が焼けてしまったが、シカゴ川を隔てた北側のこの地域は難を逃れたため珍しいビクトリア調の家屋が見られる。芸術家が多く住んでいることでも有名である。
 この店は以前アンクル・スティーブといい、あのブルース・ブラザーズが出演していたクラブで、店内には彼らの似顔絵を型どったネオンサインがある。入ってすぐ左手にビデオ・プロジェクターがあり、ステージも兼ねていr。奥にバーカウンター、ゲーム機、ビリヤードなどがあり、ここで遊ぶ客からはチャージを取らない。

★ブルー・シカゴ BLUE CHICAGO
住所:937 北ラッシュ通り 937 N.Rush
収容人員:50
チャージ:$2
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ワイズ・フールズkらさらに北へ500メートルくらい上がった東側

主な出演ミュージシャンは、エディー・クリアウオーター、バレリー・ウエリントン、ジョニー・B.ムーア、マジック・スリム、ボニー・リー、ゾラ・ヤング、サン・シールズなど

寸評:東京の六本木に相当するシカゴの歓楽街であるラッシュ通りの西側を走るステート通りに面している・85年にできた、当時はまだ新しい観光客向けのクラブ。このあたりはジャズ・クラブが多く、ブルース・ラウンジは珍しい。その後多くのローカルブルースマンがここでライブCDを制作している。

★ビディー・マリガンズ BIDDY MULLIGAN'S
住所:7644 北シェリダン通り 7644 N. Sheridan
収容人員:300
チャージ:$3~8
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンから車で25分

主な出演ミュージシャンは、バディー・ガイ&ジュニア・ウエルズ、オーティス・クレイ、ロニー・ブルックス、ココ・テイラー、ジェイムズ・コットン、オーティス・ラッシュ、マイティ・ジョー・ヤング、アルバート・キングなど

寸評: シカゴ市の北側、レークショア・ドライブを上がりきった所にある白人街のかなり大きなクラブ。近くにはロヨラ大学、ノースウエスタン大学のキャンパスがある。町並みも静かで、中央に長方形のカウンターが広がっていて大きなステージが隣接してある。奥にビリヤード場、楽屋もある。ブルース番ふぉが出るのは週に3~4回、その他ジャズ、フュージョン、白人ソウルバンドなどで、店のポリシーはブルース主体だと思われた。
ここに出演できるブルースメンは、シカゴだけでなく、全米に名の通った面々で、テキサス、デトロイト、LAからのツアーでくるブルースマンも多い。開演1時間まえには着いていないと着席することは難しい。

★フィッツジェラルド FITZGERALD'S
住所:6615 西ルーズベルト通り 6615 W. Roosevelt
収容人員:300
チャージ:$5
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンから車で30分

主な出演ミュージシャンは、リトル・エド、オーティス・クレイ、マット・ギター・マーフィー、ココ・テイラーなど

寸評:シカゴ市の西側、郊外のベッドタウンであるバーウイン(Berwyn)にある大きなパブ。ステージが1.2M位高い所にあり、客席から見やすい。ダンスフロアがあるので、曲に合わせて踊るのも良し、無料で出てくる大きな(日本人にとっては)プレッツエルを食べながらジョッキを傾けるのも良し。別室ではビデオ・プロジェクターが置いてあり、主として南部の文化、音楽のビデオ上映会をやっていた。

★イン・ザ・ミーンタイム INN THE MEANTIME
住所:6721 西26丁目 バーウイン 6721 W. 26th, Berwyn
収容人員:100
チャージ:$2~3
ライブ時間: 9PM~2AM
交通: ダウンタウンから車で35分
主な出演ミュージシャンは、ジョン・リトル・ジョン、バイザー・スミス、リトル・ボビー&スパイス、スマイリン・ボビーなど

寸評:フィッツジェラルドの近くでバーウイン市にあるレストラン・バー。ステージを少し高いところから見下ろせる中2階のような客席があり、身心地がよろしい。黒人客はほとんど来なかったが、シカゴの中堅のブルースマンがよく出演していた。レストランなのでペイがいいのかもしれない。ここではスマイリン・ボビーのビデオを撮ったが、バックが白人バンドで、のりがイマイチだった。
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終章

10月も中旬になると、シカゴは秋本番である。うだるように厚かった夏、毎日のように出掛けていった湖畔のリンカーンパークも木々の紅葉と共に人の姿もまばらになり、ウオークマン・ラジオを腰に装着して思い思いのペースで走るジョガー達が増えてきた。色とりどりの帆を揚げて湖畔をにぎわせていたヨットも、殆どその姿を見せなくなり、長い冬に備えてハーバーも間も無く閉鎖される。遠くに見えるシアーズ・タワーやジョン・ハンコック・センターは相変わらず天を突き抜けんばかりにそびえ立ち、湖から受ける風に堂々と立ち向かっている。

1329 サウス・ケーラー通り
ここはブルースマン、ジョニー・B・ムーアの住むアパートである。エルモア・ジェイムズ・バンドのピアニストだったリトル・ジョニー・ジョーンズの未亡人レサ・ジョーンズの家の半地下の部屋で、マジック・サム・バンドのベーシストだったマック・トンプソンもこの家に住んでいる。大通りのルーズベルト・ロードに出てミシガン湖へ目をやると、遠くにシアーズ・タワーが見える。こうしてウエストサイドから眺めると高さ443メートルののっぽビルは別世界のようだ。雑草が生え茂った空き地やひび割れた歩道に、風で飛ばされて飛んでくるゴミが散乱し、走っていることが不思議に思えるような車が通り過ぎるここも、アメリカが誇る産業都市シカゴの一部である。北部郊外で育った白人には、ここから見るダウンタウンの遠景がどんなにさびしいかはおそらく分かるまい。

貧困と犯罪、無教育と無秩序。日本を出る時に得ていた当時の黒人街の状況は、どれも芳しいものではなかった。しかし表面的とはいえ1年半僕達が触れた彼らは、貧しさや不遇にただ自暴的になっているのではなく、それらを吹き飛ばそうとしているし、その活力を充分に持っていると思った。もちろん、生活保護を受けたいがために夫が家出していることにしている家庭や、ユニオンに入らずスカッフル(アルバイト)としてライブ活動をしているブルースマンが山ほどいるわけで、正当に働く人から見れば憤慨するような事実がある。しかし、機会が均等に与えられているとはいえない黒人達の状況で、何とか生きていくための手段として当然存在していることも確かだった。

多くのブルースマンと客が支えるシカゴのブルースシーンは、今はもう息絶え絶えとなったデルタ・ブルースを土台として、マラコ・サウンドに代表される現代のリズム&ブルースやミュージック・ビデオに出てくるようなブラック・コンテンポラリーの影響を受けながら、無名のバーで生きていた。その根底には、魂のほとばしるハウリン・ウルフの後継者テイル・ドラガー、マジック・サムの遺産を受け継ぐジョニー・B・ムーア、リトル・ウオルターの音を小・中学校に持ち込んで教育的見地から伝道しているビリー・ブランチなどの努力が根付いている。白人や僕達日本人のような第3者がブルースの行方について、ああだ、こうだと下手な論調をこねくり回すのをよそに、ここには成功する者とそうでない者の集団である、アメリカ人として生きている黒人達がいる。彼らの生み出す音楽がブルースであろうとなかろうと、第3者が決めることではなさそうで、彼らがそれをブルースと呼ぶ限り、それはブルースである。或るラウンジで、マイケル・ジャクソンの”ビリー・ジーン”にあわせて踊るオバチャンは、「これは私のブルースよ。」とのたまった。もう、言葉は要らない。

ビデオカメラを片手に黒人街のラウンジを荒らしまくった日々を送った僕達は、今思えば少し無謀だったかもしれない。何とか無事に帰ってこれたのは、幸運の一語に尽きる。撮ったビデオは100時間にもなり、60余名のブルースマンが協力してくれた。暗いラウンジで撮った映像は必ずしも鮮明ではないが、彼らの汗、苦しみ、悲しみ、そして物事にこだわらない彼らの笑顔が、いつまでも僕等のよき思い出に残るだろう。Good bye Chicago and See you soon!

Chicago Pictures II 014

GOING DOWN SLOW

CHARLESとLAKE CHARLES

メキシコ湾に面するルイジアナ州は、エキゾチックな観光都市ニューオリンズを擁した暖かい南国だ。ここに来たらまず食道楽を勧めたい。クロウフィッシュと呼ばれるザリガニは、海老フライのようにして食べる。本物の海老ほど海の香りがしないがさっぱりとしておいしい。オードブルには、メキシコ湾で上がる天然物の生牡蠣が良い。がっしりとした厚みのある殻に入っている割にはツブは小さいが、レモンとケチャップソースをかけた生牡蠣のカクテルはビールや辛口の白ワインによく合う。また、湾内にウジャウジャ居るという蟹は、日本で言う渡り蟹くらいの大きさで、そのままフライにして、バーベキューソースをかけて手と口の周りをヌチャヌチャにしながら食べるのが本式らしい。ルイジアナで忘れてはならないのが。ガンボである。オクラと白身魚、海老、牡蠣等をトマトで煮込み、香料をたっぷり入れたスープだが立派に一品として食べられる。ルイジアナ米を使った炊き込みご飯ジャンバラヤも代表的な料理で、トマトソースで煮込んだザリガニ(クロウフィッシュ)をかけたものがうまい。

根が卑しいものでついつい話が食べ物に集中してしまった。ルイジアナ音楽の代表選手がザディコである。
”レザリコ・ソン・パセレ”-スナップビーンズは塩がついていない-という意味のフランス語がなまってこの珍妙な名前がついたらしいが、アコーディオン、フィドル(バイオリン)、ウオッシュボードなどを使ったこの地方独特のダンス音楽で、主としてアカディア地方のフランス語を話す人々によって培われた。レイク・チャールズやバトン・ルージュ、テキサスのヒューストン周辺では、週末になると黒人街でザディコ・パーティーがよく開かれている。僕等が滞在した一週間は残念ながら一度も見る機会が無かったが、春にヒューストンで見たザディコは僕に強烈な印象を与えた。折りしも女性ソウルシンガーのデニス・ラサールが"My Tutu"を歌って大ヒットさせていたが、この曲はレイク・チャールズを本拠地とするザディコ・ミュージシャンのロッキン’シドニーのオリジナルだった。このほかには御大クリフトン・シェニエ、追随者のバックフィート・ザディコをトップにルイジアナには多くのザディコバンドがあるということだった。

アメリカは格安で小綺麗なモーテルが豊富で、経済的な旅を好む旅行者には無くてはならない存在である。ハワードジョンソンやホリデイインは少し高めで当時40~60ドルしていたが、ベスト・ウエスタンやトラベロッジなどは30~50ドル、ローカルのモーテルは25ドル位からあった、通常ダウンタウンからは少し離れているのでバスで旅行する人にとっては少し歩くことを覚悟しなければならないが、YMCAのような、汚くて安全に問題のある木賃宿に比べればはるかに快適で、フロントの人も概して親切だった。余談だが、日本人は特に女性は実際の歳よりもかなり若く見られがちなので、時々面白い事が起こる。嫁の京子は日本に居る時でさえよく高校生に間違えられた程の若作り(?)で、僕の娘だと信じて疑わなかった支配人が何人かいた。

街全体が何かにすっぽり包まれ、眠っているように静かだ。ルイジアナのレイク・チャールズ。僕達はこの町で
実に素敵なアメリカ人家族と知り合うことが出来た。彼らの名前は"TEKKIPE"、少し変わった苗字でドイツ系だった。奥方のANNAが、おそらくアメリカでも滅多に耳にすることがない苗字であろうと言った。グレイハウンドのバス停で若い黒人にどこか安いモーテルはないかと尋ねたところ、”インペリアル・モーター・イン”が手頃だと教えてくれた。バス停からタクシーで4ドルくらいとは言われたものの、節約の為に歩くことにした。その日モーテルのフロントにいたのが、チャールズ・テキップさんだった。えらく腰の低いオッサンだなと思っていると、彼は実はレイクチャールズにある大学の社会学専攻の講師で、パートでモーテルのフロント係をしていたのだった。奥さんがビルマ出身であることや、彼自身がタイに1年間住んでいたこともあって東洋人に興味があるらしく「君達は日本人? 旅行中かな?」と興味津々。レイク・チャールズへ行けばザディコが聴けるとワクワクしていた僕達は、早速チャールズにどこへ行けばザディコを演奏しているか尋ねてみた。

「ZYDECO? えっ?聞いたことないな~」
などという大学の講師の言葉に、まあ白人だし、音楽に興味なければいくらルイジアナだからといっても当然かもしれない。担当クラスの生徒に電話して聞いてもらったが、誰も知らないという。まあ、とりあえずバスディーポ(ターミナルのこと)から熱い南部の日差しの中かなり歩いたのでなまずのフライでビールを一杯(もっとだったか?)やってモーテルの部屋に帰った僕達に、チャールズの奥さん、ANNAから電話がはいった。

「あなた方日本人ですって?会いたいわ~。うちにいらっしゃいよ。いまからチャールズを迎えにやるからね。待ってるわよ!」ガチャッ。とかなり一方的な電話ではあったが、現在のようにホテルにフリーペーパーや観光案内などなく、ましてや南部の小さな町のモーテルではラウンジやザディコについて情報が何もなかったのでお誘いに乗ることにした。可哀そうなのはチャールズで、5時でフロント勤務が終わり、ああやれやれと家でくつろいでいたのに僕達を迎えに、またモーテルまで来なければならなかったのだ。

私たちの話を聞いたANNAは、”自分はザディコについては何も知らないができるだけのことをしてあげよう、それより、モーテルなんて高くつくから明日から我が家で寝ればよろしい。ご飯もみんなで食べればいいし、旅行中余計なお金は使わないようにしなさい。”そうだわ、ハニー!(だんなのチャールズのことね。)、明日授業が終わったら彼らをモーテルに迎えに行ってうちにつれてきて頂戴、わかった?”と機関銃の如くしゃべりまくった。この間チャールズは”ウン、ウン、”とうなずくのみ。いいのかな~?モーテルの従業員が客を連れ出して自分の家に止めたりして...。それに、今日会ったばかりの人達で、おまけにブルース、ザディコが好きというわけでもなく共通点がない。私達は助かるけれども迷惑ではないでしょうか?とやんわりと断ったら、

「Whaaaaat are you talking about?」何を言ってるのよ!
「Don't worry about anything!」心配いらないわよ!
とツルの一声。
てなわけでお世話になることになったが、なんと三泊にもなってしまった。いや、おいしかった。はるばる南部まできて炊き立てのカリフォルニア米...。

ANNAは、15歳の時迫害を避けてキリスト教のミッションとして故国ビルマ(現ミャンマー)を出てヒマラヤを歩いて越えた、と話してくれた。飢えと寒さで多くの友人が死んでいく中で彼女はただひたすら神を信じて歩き続けたという。その時以来故郷に住む両親、兄弟には会っていない。遠く離れた国に住む肉親と自分をつなぐ唯一の手段は手紙。でも、その手紙ですら中身を調べられるため、当たり障りのないことしか書けず、しかも数年前、危険なのでもうこれ以上手紙をくれなくていいとの手紙を受け取った、と淋しく語った。その話を聞きながら、ビルマの政情(軍事政権)に関して何の知識も持っていなかった自分が恥ずかしく思えた。髪、目、肌の色はアメリカ人から見たらほとんど同じように見える私達、しかし僕達にはビルマはアメリカ以上に遠い外国だった。

彼女は自分の知らないことに関しては質問をやめようとはせず、納得するまで問い続ける。彼女が「I'll make sure.」という時、彼女の指はすでに電話のダイヤルに伸びている(このころはプッシュ回線でなかった。)。斜め向かいの住人は黒人だからザディコについて知っているかも知れない、といいつつもうドアに向かっていて家まで訪ねていく。魚釣りをしている白人青年や黒人のおっちゃんに、どこかのラウンジでザディコを演奏していないかを聞きまわる。レコード店に電話する。そして音楽スタジオを持っている友人がいるという知り合いに電話をする。私達は次から次へとダイヤルを回す指と、動き続ける口を見ているだけだった。

「Don't be shy!」恥ずかしがらないのよ!
ANNAはいつもこう言っていた。”わからなかったら聞くのよ。聞くことを恥ずかしいことだと思うな!遠慮してどうするの?困っている時に助け合わなくて、人間いったい何の価値があるの?”とも言った。
若くして生と死を見て暮らし、異国で言葉も分からず生き延びなければならなかったANNAにとって、自分が納得するまで問い続ける姿勢は彼女の人生から生まれでた教訓に他ならない。小柄な彼女が随分と大きく見えたヒトトキだった。

チャールズの家に来て2日目、ANNAにからし菜(colored green)のおすそ分けを持ってきた知り合いの黒人のおっちゃんが「何?ザディコだtって?」とギョロリとこちらを見てニターッと笑った。そうだ、この笑い。間違いなくこのおっちゃんは知っている!

「知っとる、知っとる。ワシはザディコはよう知っとる。」
「でも、どこでやっとるかは知らんな~。じゃが、調べてやろう。分かったら知らせるよ。それよりあんたら日本人だって? 懐かしいな~。ワシは1954年に船で日本に行ったんよ。」

その昔日本に軍隊で行ったことを思い出し、延々としゃべり始めた。調べてあげようとは言うものの、いつになるか分からない。”I'll give you a call.”には苦い思い出が一杯ある。やっぱり自分達で直接街に出かけたほうが確実だと、チャールズの2台目の車、ホンダシビックにのってダウンタウンに飛び出した。

目を開けていられないほど太陽の日差しはまぶしく、空は青く澄み渡り空気はおいしい南部の静かな町レイクチャールズ。残念ながら僕達はザディコを耳にすることは一度もなかった。週末をはずれていたこと、コンサートや大きなイベントがなかった時期だったこと、有名なミュージシャンはツアー中だったり大御所のクリフトン・シェニエは入院中だったりと、全てにおいてアンラッキーだった。しかしCHARLESとANNA、そして4人の子供との出会いは最高だった。レイクチャールズ最後の夜、21:30発の夜行バスに乗り込んだ僕達は、その日17時までモーテル勤務のチャールズに見送ってもらった。モーテルに鍵をかけてこっそり抜け出し、バスターミナルまで送ってくれた。ザディコを見ることは出来なかったが、素晴らしい人たちにであった街レイクチャールズにまた来ることがあるのだろうか...。

DEEP DOWN SOUTH

レイク・チャールズから北上してアーカンソー州の州都リトル・ロックまで11時間かかって到着した。市内を悠々と流れ、北の黒人街であるノース・リトルロックと南のダウンタウンを分けるアーカンソー川は、1985年のリバーサイド・フェスティバルの開催で川辺が整備され遊覧船も出ていて新しい観光名所となっている。ダウンタウンの川沿いにあるオールド・キャピタルはリトルロックの歴史博物館となっていて、19世紀から始まった市の発展が一目で分かるコーナーもあり、中々興味深い。
さて、地元リトルロックではKAFBがブルースの番組を持っていて、新旧のブルースを流している。ここでも中心となるのはマラコの連中で、地元のマイナーなミュージシャンのレコードは流れなかった。しかし、週末のブルース・ギグ情報はここで入手することが出来る。運よく金曜日に到着した僕達は当日テッド・テイラー、土曜日はボビー・ラッシュと、日本ではまず見れそうも無い二人のショーを見ることが出来た。

Ted Taylor 2
Ted Taylor@Nilobi Club

テッド・テイラーのコンサート会場"Nilobi Club"は市の南西、中心部から車で30分程度の山の中にあった。開演1時間前に到着、周りはもちろん黒人だらけの入り口でウロウロしていると支配人らしき人に呼び止められ、入場名簿にサインするよう求められた。えらい高そうなところだなと、懐の寂しい僕達は不安がつのった。しかしこの支配人、以前兵役で日本にいたことがあって話がはずみ、頃合いを見計らって水戸黄門の印籠の如き威力を持つ”JUKE”の名刺を出すと、いとも簡単に無料で中に入れた。おまけにバーで飲み物まで無料で出してもらった僕は、帰国したらJUKE編集部に一杯おごらなければと、心に誓ったのであった。

さて、主役のテッド・テイラーはソプラノの美声で有名なブルース/ソウル・シンガーで、オクラホマ州出身、”The Mighty Clouds Of Joyなどのゴスペル・グループを経てR&Bグループの”ザ・キャデッツ”を結成、1960年代にDukeで"Be Ever Wonderful"がローカルヒットしたが非常に特徴のある高音の持ち主で、どうにも同じタイプのシンガーがいないほど独特の雰囲気をかもし出していた。ステージでは唯一のヒット曲"Be Ever Wonderful"を始めとするバラードから、"Steal Away", "Little Red Rooster", "How could you do that”などを熱唱、後半からギターを持ち出してステップを踏みながらの熱演で、大喝采を浴びていた。シカゴソウルやマラコサウンドとも違う不思議な中にもブルージーな余韻が残る、何とも例えようがない感動があった。

ステージ前の簡単なインタビューにも快く応じてくれたテッドおじさん、家には鶏を飼っているそうで、田園をこよなく愛するカントリーボーイらしく、”日本にはどんな動物がいるんだい?”という質問には、返答に困ってしまった。2度のステージが終りクラブの正面に出ると、よくこれで走るなと思われるポンコツの車がひしめき合っていた。僕等がタクシーに乗るまで見送ってくれたマネージャーにお礼を言い、まず2度と来ることのない山の中のクラブを後にした僕の頭には、いつまでもテッドの高音の美声が残響していた。運命の糸が僕達とテッドの間に結ばれていたと今は思わざるを得ない。テッドはこのコンサートからたった2年後の1987年11月に交通事故で亡くなっている。

翌日ボビー・ラッシュのコンサートは、”リトルロックで最も危険な所”とタクシードライバーが言っていた、ノース・リトルロックにある"OWL'S CLUB"でのワンナイト・オンリー(一晩だけのコンサート)だった。あちこちに廃車が積み上げられた広場や、材木が無造作に置かれた空き地が見えるだだっ広い場所にそのクラブはあった。見知らぬ土地の黒人街に入っていくのは何度も経験しているが、シカゴのような大都会では路地の作りが決まっていてなんとなく輪郭がつかめるのだが、周りに建物がないリトル・ロックの黒人街では非常に緊張した。入り口付近には5~6台の車が止まっていて、その中の1台のボンネットには大きなラジカセが置いてあり、最大のボリュームでプリンスの曲が鳴り響いている。若い黒人達がたむろしている入り口に、嫁の京子に興味を示したようなその中の一人が何やら訳のわからない言葉で文句を言ってくる(ように思えた)。こんな時は無視するのが一番、何食わぬ顔でクラブに入っていった。

Bobby Rush 1
Bobby Rush@Owl's Club

ドアを開けるとタバコの煙が充満した暗い、うなぎの寝床のような客席に着飾った黒人達がぎっしりと詰まっていた。クローク・ルームの隣にあるカウンターで入場料を払い、何とか座れる場所を確保したものの、ステージとは壁をへだてていて全く見えない。どうやら良い席はほとんどが予約されていたようで、Mr.某と書かれた札が置かれているテーブルがいたるところにあった。この当時はコレクターのみぞ知る存在だったボビー・ラッシュは、こちらでは黒人大衆の絶大な支持を受けている大スターのようで、この当時の入場料7ドルは(当時のレートで15ドル~20ドルくらい)は黒人街ではかなり高価なものだった。実際、4人編成のコンボ・バンドに若い男性シンガーをバックコーラスにつけたボビーのショーは、ブルースはこんなものだという僕の概念を変えさせるのに充分だった。シンセサイザーを前面に打ち出した音作りはジェームズ・ブラウンの音楽性を発展させたものとブードゥー教の踊り、悪魔的な呪いの儀式の再現を醸し出していた(ような気がする)。

シカゴのブルース・クラブでは彼の”SUE”が大流行で、海の向こうでバディ・ガイやジュニア・ウエルズ、オーティス・ラッシュやバイザー・スミスなどの、正統派のブルースマンの音に慣れていた自分にとっては、今とっても新しいブルースなんだなと考え方を新たにしたことを覚えている。セクシーな歌詞とうねるようなベースライン、絶え間無くリズムを刻む重厚なドラムスに乗せて語りかけるスタイルは黒人大衆の心を掴んで離さなかった。大ヒットしたセクシーな内容の”SUE”や”Gotta have some money”など黒人のストレートな欲求を唄ったものには以前のブルースにはなかった強烈な攻撃的歌詞が印象的だった。AAB式のブルース進行とは確かに違うし、日本ではおそらくディスコ・ミュージックと受け止められるだろうが、彼は確実に今の黒人達を引き付けるものを持っている、80年代のブルースマンだった。いつの間にかステージの前には女性客が列をなし、豊かな胸の谷間に1ドル札を挟んでセクシーに踊りながら、”SUE”を唄うボビーの腰に絡みつく女性達を目の前にした僕は、黒人大衆文化の最前線を目撃したことになる。

Cotton Fields
Cotton Fields

翌日の昼過ぎ、コンチネンタル・トレイルウエイズのシカゴ行きに乗り込んだ僕達はリトルロックを後にして北へ向かった。なつかしのスイートホーム・シカゴへと・・・。
ふと気がつくとあたりはまた一面の綿花畑になっていた。10日前に同じ景色を見たようでもあり、もう何ヶ月も見ているようでもあった。時計の針が止まってしまった、そんな錯覚を覚える所、それが南部アメリカの印象だった。シカゴに着いたのは翌日の早朝4時頃、懐かしく騒音ときらめくネオンが僕達を迎えてくれた。早朝まで飲んだくれてうろついている若者、トイレの手洗いで頭を洗っている黒人のオッサン、そしてバス・ディーポのマクドナルドで残飯をあさるバッグ・レディー・・・。猥雑で危険が一杯の街シカゴ。それでもなおここはスイート・ホームだった。

ミシシッピーを下って

シカゴに棲み付いて1年半が過ぎた。思えば半年くらいで帰ろうと思っていたのだが、よくもこんなに長い間ブラブラと遊べたもんだと思う。黒人音楽研究は名ばかりで、実際は夜な夜な黒人街に出没し、ビデオカメラで彼らの生態を録画したフィールド・ワークに過ぎない。今しか出来ないという強迫観念がなかったら、こんなに長い遊学はしなかっただろう。帰国の日を10月下旬に定め、未だ見ぬブルースの里、ミシシッピーを訪ねようと決心したのは、やはりこのアメリカで数少ない民族音楽であるブルースが生れた土壌を是非見ておきたいという衝動に駆られたからに他ならない。

ブルースが民族音楽としてはほぼ存在していない今、純粋なカントリー・ブルースに触れることは出来ないのはわかっていたが、仲良くなったブルースマンのほとんどがミシシッピー、アーカンソー、ルイジアナなどからの出身だったので、ミシシッピー川沿いを下ってニューオリンズまで出掛けようと決めた。帰国の日が決まり、車の買い手が見つかったので、或る日テイル・ドラガーおじさんにその報告がてら、帰国の挨拶に行った・以下はウエストサイド、ポンデロッサ・ラウンジでの会話。

「ミシシッピーを下るんだって? いつ行くんだい?」
「多分10月第1週目に、バスで下ることになると思うよ。」
「オレは近々故郷のアーカンソーへ来るまで帰ろうと思っていたんだ。どうだい、一緒に行くかい?」
「本当? 喜んで!」
「じゃ~近くなったら電話するよ。」

願ってもない誘いだった。彼と一緒に行けば、行く先々で無名のブルースマンに逢えるかもしれない。それに地元の人が案内してくれれば、こんなに心強い事はない。家財道具をガレージセールで売り払い、アパートを整理して準備が整った僕達は、ひたすら彼の連絡を待った。しかし、出発予定日の一週間前になっても電話は鳴らなかった。心配して架けてみたが、誰も出ない。30分ごとにしつこく電話していたら、”ハロ~”と、くたびれた女の声が聞こえてきた。

「テイル・ドラガーはいますか?」
「ここには誰もいないよ、あんた誰?」
「ビデオマンのケンといいますが、525-0940へ電話するように伝えてもらえませんか?」
「なんだって? もう一回行ってくれる?」
「あのですね、ですからうんぬんどうのこうの・・・」
以下延々と説明するが、伝わらない。

酔っ払っているのか、それともコカインで頭がシビれているのか、全く要領を得ないおばちゃんにやっと伝言を残した僕は、果たして通じたのかしらん、と悩み、また英語の自信を無くしてしまった。

それから2日後、アパートを開け渡す1日前の早朝、あれは夜中の4時過ぎだったろうか、すっかり整理してしまって、ベッドのマット1枚きりしかない部屋にけたたましく電話が鳴った。誰かいな今頃、日本から国際電話でもかかったんかいな、と怪しげに受話器を取った僕の耳にはいた来た言葉は、例のダミ声だった。

「ヘイ、ケンハイルカ? テイル・ドラガーダ。」
これですもの、これですもの。これが黒人のオッサンの常識なのです。恨み節でも一節プレゼントしようかとはやる気持ちを抑えて、僕は本題を切り出した。
「ミシシッピー行きはどうなったんじゃ? こっちは明日からSHOJIさんのアパートに居候するんだ。明後日車でミシシッピーへ下るのは本当だろうな?」
「ああ、わかってるよ。明日電話するよ。」

「あとで電話する=うそである」という図式を理解しないではなかったけれども、荷物をすっかり片付けた今、頼るのは彼一人、二日後の出発を前にして、神頼みでもしたいくらいの心境だったが、彼を信じるしかなかった。そして翌日、身軽になった僕らは旅行用品だけになってしまった荷物をあとわずかの付き合いになってしまった愛車のシェベットに乗せて、SHOJIさん宅に身を寄せる事になった。テイル・ドラガーと一緒ではシャワーなんか満足に使えないかもしれない、という事で入念に体のすみずみまでよく洗い、銀行口座の解約やイリノイ・ベル(電話会社)、コモンウエルズ・エジソン(電気会社)などの光熱費の支払いを済ませた。あとは体一つで南部へのたびに出掛けるのみとなった。いやいや、あのオッサンからの電話が無ければこの計画は白紙になってしまう。しかしその日はとうとう電話が鳴らなかった。

出発予定日の当日、ついに我々は電話作戦を開始した。朝起きて電話、朝飯を食べて電話、昼飯の準備の合間に電話攻勢を掛けたが、相変わらず誰も出ない。ひょっとしたらテイル・ドラガーのことだから恨みを持っているだれかに撃ち殺されたかもしれんなどと思い、馴染みのクラブオーナーに電話してもラチがあかない。ついに仕事場である自動車の修理工場に電話を入れてみた。彼は一応カーメカニックである。或る時SHOJIさんのVWビートルがハイウエイで火を噴き、彼の工場に持って行ったところ、電気の配線が焼き切れていたにもかかわらずいとも簡単にスタートさせたこともあった。ここならつかまるだろうと電話したら、何とも非情な答えが返ってきた。

「奴はこの間から来なくなったよ。やめたのさ。」
「今何処にいるかわからないですか?」
「知らないね。あんた一体誰?」
「もういいです。ありがとう。」

それからはまさに怒涛の如く彼の家に電話を架け続けたが、夜になっても結局彼はつかまらなかった。予想もしなかったといえばうそになるが、他人の言葉をすぐに信じてしまった僕は、彼のことをあきらめ、深夜2時過ぎのメンフィス行きのグレイハウンドで南下することを決め、半ばヤケになってジンをあおっていた。
そして、しつこく京子が掛けていた電話に返事があった。

「あんた、テイル・ドラガーなの?」
「うん、そうだ。」
「ちょっと待っててね、切らないでよ! Kenに代わるから。」

「おい、何で電話くれなかったんだ? ミシシッピー行きはどうするんだ?」
「車が壊れた。今日は行けん。2週間待ってくれ。」
「今日出発するってあれほど言っただろう?」
「そう言われても、行けんものは行けん。」
「せめて電話ぐらいくれてもいいでしょ!この嘘つき!」
「いや~、行くつもりだったんだよ。」
「もう何も頼まんよ。」ガチャッ

他人の車に便乗しようとしていたこちらも虫が良すぎたのかもしれないが、彼は結局一度も謝らなかった。予定は未定で決定にあらず、獲らぬ狸の皮算用。変更があれば必ず相手に事前に連絡すべし、などというモラルは通用しなかった。そんなことは過去メキシコ人との交際で充分わかっていたのだけれど・・・・。このことは以後の処世術に充分生かすことが出来た。


シカゴのグレイハウンドバス駅はダウンタウンの目抜き通り、ミシガン通りから3ブロックに市にに入ったディアボーンとランドルフ通りの角にあった。デトロイト、ピッツバーグからニューヨークへ向かう東行き、カナダへの北行き、デンバーからテネシー、ミシシッピーへと下る南行きという具合に、中西部の中心地であるシカゴバスディーポからは毎時短い間隔でバスが発着を繰り返していた。SHOJI夫妻に見送られ、シカゴに来て初めて長距離バスにのった僕達の胸に去来するものは、東洋人の少ない南部への、頼る当てのないバス旅行への一抹の不安、それに、どんなブルースマンに逢えるのだろうかという期待だった。流れていくダウンタウンのネオンサインを漠然と眺めながら、僕達の思いはいつしか無意識の眠りの中に落ちていった。

イリノイ州は南北に長く、北端に近いミシガン湖に面したシカゴと、ケンタッキー、アーカンソー、テネシーに接する南端とはかなりの温度差があった。翌日テネシー州第二の都市メンフィスに着いたときは暖かい、さすが南部だと感心したのを覚えている。陽はゆっくりと流れるミシシッピー川の川面を射し、まばゆいばかりの光を僕の目に打ち返す。母なる川、世界で2番目に長い川として知られているが、メンフィスから見えるミシシッピーはテレビで見たアマゾンや黄河、南米のラプラタ川などに比べると川幅は狭く、対岸はそこに見えた。ダウンタウンを歩くと、人の少なさにまず驚かされた。人口70万の中堅都市であるのに、人通りが余り無く今日はホリデイなのかしらんといぶかしげに街を歩いた。タクシーの運転手の話では、南部では午後4時を過ぎるとダウンタウンは死んだようになるとのことだった。北部の大都市シカゴの躍動する姿に慣れてしまった僕の目には、午後3時半に閉めてしまうレストランはどうにも不可解だった。昔はスタックス、ハイサウンドなどのレコードレーベルで有名だったメンフィスだが、ナイトクラブとなると数えるくらいでブルースを演奏している場所もビール・ストリート界隈に点在する、プリザベーション・ホールまがいのバーだけで、現役のブルースマンはほとんど活動していなかった。そこで、メンフィスでの唯一の連絡場所であるWAYLO RECORDに電話すると、かろうじて南部の歌姫、リーン・ホワイトに逢うことができた。

Lynne White
リーン・ホワイト@WAYLO RECORD

メンフィス南の黒人街にあるスタジオを訪れると、折りしもリーンはあのホッジス兄弟を含むツアーメンバーと共にリハーサル中だった。 日本から持参したJUKE誌をプレゼント、たまたま彼女のアルバム、”SLOW & EASY"のリビューが掲載されたこともあって、”日本からはるばるやってきたの? 嬉しいわ!!!”などといって感激した彼女、その新しいアルバムを僕にプレゼントしてくれた上、リハーサル中の写真撮影を許可してくれた。音楽雑誌の特派員という名刺は実によく効くもんだ。残念ながらこの日はラウンジでのライブは無かったが、スエットスーツを来た素顔の彼女に接して、そのパワフルな歌声に触れることが出来たのは幸運だった。モーテルへ帰るタクシーに乗るまで見届けてくれた、心細やかな彼女の笑顔は、また一つの収穫であった。

翌日昼過ぎにメンフィスを後にしてコットン・キングダムと自ら名乗るミシシッピー州グリーンウッドへと向かった。すぐに道路の両脇は一面綿花花畑となった。高さ60~90CMくらいの茎の先に真っ白に咲いた花を、かつて大きな袋を背負いながら一つ一つ摘み取っていた黒人達の姿はそこには無く、今は大型の自動摘み取り機が取って代わっている。魂のこもったブルースが少なくなり、派手な音作りの曲が幅を利かせる様になった理由をそこに見たような気がして、僕はただいつまで続くか分からない綿花畑をぼんやりと見ていた。

グリーンウッドに着いたのはメンフィスを出て3時間ほど経っただろうか、バスは屋根もない小さな停留所に止まった。ここに立ち寄ったのは、以前シカゴで活動していたブルースマン、ウイリー・コブスに逢うのが目的だった。彼はマジック・サムやオールマン・ブラザーズらが取り上げている"You don't love me"の作者で、ミスター・Cというバーベキューレストランを営む側ら、WILCOという自己レーベルでシングルをポツリポツリと出していると言うことだった。うまくいけばライブも見れるかも、と虫のいい事だけを考え連絡も取らずいきなり彼の店を訪れた。

さて、アドレスを頼りにそのバーベキュー屋へとたどり着くと、案の定店は閉まっており色が変わっている郵便物がドアに差し込まれたままだった。ここで彼に逢えなかったら何のためにグリーンウッドで途中下車したか分からない。途方にくれていると、彼の友人だという40歳くらいのオッサンが通りかかり、彼に夕方逢うことになっているから近くのバーで彼を待ったらどうか、という話になった。聞けば、バケーション中だったらしい。そこでグリーンウッドの黒人街に乗り込むことになった。道路は舗装されていないし空き地は荒れ放題という田舎町である。勇気を出してビデオカメラを取り出した。綿花を運ぶ貨物列車の向こうに夕焼けが広がり、踏み切りを通り抜ける車からこちらを凝視する目が光り、行きかう人々も僕を奇異な目で見ている。しばらく町並みを撮っていると、片足を引きずって歩くオッサンが僕の目の前に立ちはだかり、”俺を撮れ!”と命令してきた。どうやらスチールカメラと間違えているようだ。スイッチを押さず、撮るまねをして、”OK, I got you.と言ってその場をやり過ごした。

さて、田舎町のバーである。ここではライブはやらないが、ジュークボックスの選曲はさすがに南部らしく、ジョニー・テイラー、Z・Z・ヒル、バスター・ベントン、マッキンレー・ミッチェルなどが掛かっていた。ビールを飲みながら待つこと2時間、妻子を連れたウイリーが車でやってきた。

「やあ、日本から来たってのはあんたかい?」と、ウイリーは目を輝かせながら言った。
一つはJUKE誌が彼のレコードをリリースしようとしていた事、もう一つは、彼が海兵隊に居た頃しばらく日本に滞在していたことがあったからだった。日本滞在時は唄ったことは無かったらしいが、日本のことはよく覚えていて、会話のなかで時々思い出したように、”コンニチハ”などと日本語の挨拶を口に出して、昔の思い出にふけっていた。

”バンドを組んでそれを維持していくことは難しいことさ。気の合う、いいミュージシャンと知り合っても、ペイのいいバンドへすぐに移ってしまうしね。リーダーになりたがる奴が多いので調和も大変さ。オールマン・ブラザーズのカバーが売れたので印税がまあまあ入ったから俺はラッキーだったがね。だけど今はこの辺じゃ評判のいいバーベキュー屋をやりながら、たまに白人連中をバックにつけて小さなフェスティバルへ出掛けることが俺のミュージシャンらしい姿だね”
シカゴのウエストサイドを中心に活躍した彼だが、彼にとってのブルースはもはや趣味の域を出ていないようだった。寂しくもあり、また隠しようもない現実でもあった。

Chicago Pictures II 016
マラコ・スタジオにて

ミシシッピー州の州都ジャクソンは州のほぼ中央に位置している商業都市で、綿花の集積地でもある。ギリシャのパルテノン神殿を思わせるプランテーションハウスのあるダウンタウンからハイウエイ49を北に向かうとノースサイドAve.にぶつかる。交差点から東へ歩いて10分くらいで右側にバラック建ての平屋が見えてくる。車で通ると見落としそうなこの建物が、当時サザンソウルのプロデュースをリードしていたマラコ・スタジオである。中に入ると小奇麗な応接間の奥に20畳くらいのスタジオがあり、アンプやドラムセットが所狭しと置いてあった。Z・Z・ヒル、デニス・ラサール、ラティモアをはじめ、ジョニー・テイラー、リトル・ミルトン、ボビー・ブランドなどの大物から、ジャクソン・サザネアーズなどのゴスペル・グループまで幅広いブラック・ミュージックを手がけてきたマラコ・レコードは当時アメリカのブルース・ソウル界をリードする最もアクティブな会社だった。

いわゆる民族音楽としてのブルースに比べれば、当時のマラコ・サウンドは確実にソウル、またポピュラー・ミュージックに他ならないだろうが、現代の黒人達がブルースと呼ぶものの中にマラコの音も確実に含まれていたと思う。何故なら、シカゴの黒人街でも、ここミシシッピーのラウンジでもDJが書けるレコードはマディーでも、サニーボーイやハウリン・ウルフでもなくデニス・ラサールであり、リトル・ミルトンだからだ。現実に”ブルース・イズ・バック”というマラコのキャンペーンは、若い黒人達にもブルースの重要性を認識させようとする意図が感じられた。この他、バーネット・レコードが持つノーラン・ストラック、ボビー・ラッシュの音を作り出しており、ジャクソンでは大きな力を持っているし、細々とサザン・ソウルを支えているレコード会社があるのは救いだった。


Cadilac George Harris
"Cadilac George Harris"@Queen of Hearts, Jackson

ジャクソン市内でステディなライブ活動をしているブルースマンは多くない。トミー・テイト、ジーター・デイビスは、たまに週末大きなクラブで演奏したりするが、小さなバーでは演奏していなかった。無名ながらRetta's Recordからシングルを出している”キャデラック・ジョージ・ハリス”は、ローカル・シンガーの中でもアクティブな一人だ。黒人街の"Queen of Hearts"で見た時は派手なフュージョン・バンドをバックに、60年代のシカゴ・ブルースを焼き直した曲しか唄っていなかった。彼はこう言う。
「自分としては、ブルースが好きだし歌うのもブルース中心だけど、古いタイプのブルースを自分でレコードにしても買うほうはオリジナルを買うさ。ブルースを聴くことは聴くが、買うまではしないのが、今の黒人連中さ。」
デルタ・ブルースの本場ミシシッピーでも、ラジオから流れてくる音はブラックコンテンポラリーばかりだった。
ここで僕達はザディコの匂いを嗅ぎながらディープ・サウスの深部、ルイジアナ州レイクチャールズへと舵を南へと切り替えることになった。

第2回シカゴ・ブルース・フェスティバル

Chicago Pictures II 013
Delta Fish Market


6月、初夏のシカゴはとても美しい。長く寒い冬に耐えた草木が、その生命の強さを誇るかの如く青々とした緑を天に伸ばし、公園にはリスたちが戻ってきて、散歩に来る人々が持ち寄るナッツを競って取り合っている。
僕達の住むアパートの部屋も極限の暑さとなり、昼間は公園で新聞や本を読むのが日課となっていた。初夏といえば野外コンサートである。市内では各コミュニティーが様々な催し物を企画し、場合によっては通りを閉鎖してそれぞれ独自の民族カラーによる、日本で言うと地区祭を開催し始めた。僕等も、フリーペーパーの"READER"を頼りに黒人街に進出してビリー・ブランチ&SOB、アルバート・キング、オーティス・クレイ等、機会が許せばビデオを撮った。

6月1日、ウエストサイドのデルタ・フィッシュ・マーケットでは、8,9,10日にダウンタウンのグラント・パークで行われる第二回シカゴ・ブルース・フェスティバルの一環として、"Tribute to Howlin' Wolf"(ハウリン’ウルフに捧げる)コンサートが行われた。前年の84年から始まったシカゴ市主催のフリー・ブルース・フェスティバルは、初の黒人市長ハロルド・ワシントンを中心とした市長室企画部が観光客獲得を目論んでこれ以降毎年6月に開催されている。

主賓にウルフの未亡人リリー・バーネットを迎えて(ウルフの本名はチェスター・バーネット)、ウエストサイドのボスであったウルフに関係の深いブルースメンが続々とやってきた。ドラムスにサム・レイ、ギターにスモーキー・スマザーズ、リトル・スモーキー、ヒューバート・サムリンが次々に登場し、最後にはエディー・テイラーも参加した。ピアノには御大サニーランド・スリム、ベースにビッグジョン・トワイスという顔ぶれだった。

この日初めて見たヒューバート・サムリンは、三つ揃いのスーツで登場、レコードで聴けた身を切るような鋭い音は感じられなかったが、緊張感溢れるギターワークは健在で、ウルフ・バンドの番頭格だった彼らしさは窺えた。この日のハイライトはウイリー・ディクソンとフロイド・ジョーンズだった。両人とも付き添いなしではステージに上がることができないほど身体が衰弱していたが、ブルース界の大御所を垣間見ることができたし、ウイリー・ディクソン師匠の、"Blues is facts of life."(ブルースは人生そのものだ。)とのコメントを聞くことが出来て、非常に感激したのを覚えている。


6月9日、メイン会場のペトリロ野外音楽堂から1ブロックはなれた同じ公園内で小規模ながらサブ・ステージが設けられ、シカゴのローカル・ミュージシャンを中心に、”フロント・ポーチ・プログラム”が開かれた。メイン会場が夕方の17時半から22時半まで続くのに対し、正午から16時までローカル・ブルースマンの演奏を楽しんでもらおうという、シカゴ市長室特別企画部の粋なはからいであり、外国から来た僕のようなブルース・ファンにとっては、3日間びっしりとブルースを楽しめる夢のようなコンサートだった。
初日はジェームス・サン・トーマス、ホムシック・ジェームズ、ハニーボーイ・エドワーズらの、ボトルネックギタリストによるカントリー・ブルース合戦から始まった。中でも目を引いたのがサン・トーマスの充実振りで、枯れた、味わい深いボーカルと、控えめながら鋭いギターで、デルタブルースの真髄を充分味あわせてくれた。

Chicago Pictures 027
ロバート・JR.ロックウッド

午後は、高齢ながら精力的に活動しているピアニスト、サニーランド・スリム、ジミー・ウオーカー、そしてブルース・ギターの大御所ロバート・Jr.ロックウッドがこれに続く。ロックウッドは、ギルドの12弦ギターを使ってお得意のジャズっぽいリフを聞かせてくれたが、バックが即席バンドで今ひとつしっくりいってなかったようだった。しかし、18番の”ストーミー・マンデイ”では相変わらず素晴らしいブルース・ギターを聞かせてくれた。

この日のハイライトはシッピー・ウオレスだった。1920年代後半の黒人女性シンガー全盛時、ミンストレル・ショー(大道芸人のようなもの)や、メディシーン・ショー(得体の知れない薬効の薬を売りつける、がまの油売りのようなもの)の前座で、ベシー・スミス、マミー・スミスに代表されるヴォードビルの生き証人である彼女は、アルバータ・ハンターと並んで、当時観客に古き佳きクラッシック・ブルースを提供してくれる数少ないシンガーだった。86歳という高齢にも拘わらず、"Woman be wise"など10曲余りをピアノの伴奏のみで歌い上げた彼女は、付き添いがないと歩けないほどの体からは想像できない、力強く味わいのあるボーカルを聴かせ、他の出演者を圧倒するほどの喝采を浴びていた。

翌日はワシントン・D.C.でサニー・テリー&ブラウニー・マギースタイルのカフェ・ブルースを展開しているジョニー・セーファス&フィル・ウイギンスを皮切りに、ダラスで今もバレル・ハウスピアノを弾き続けているアレックス・ムーア、そして地元の強力バンド、エディー・ショウ&ザ・ウルフ・ギャングで2日間の幕を閉じた。エディーはお得意のサックスのほかハーモニカを手にして"Mojo Workin'"を軽くこなし、多彩な腕を見せてくれた。ギターは息子の"Eddie Van Show JR."で、荒削りながらもフレッシュなギターワークで好感が持てた。全体としては寄せ集めの顔見世的な側面は隠せないが、何せこれだけの顔ぶれは滅多に揃うものではないので、ブルースを楽しむには充分すぎるショーだと思っている。

Chicago Pictures II 001
Petrillo Music Shell@Grant Park

さて、話をメイン会場に移そう。
昨年は初日のタイトルが"TRIBUTE to MUDDY WATERS"で、マディーに関係の深いブルースメンが数億出演したが、今回の初日は"GRAMY AWARD NIHGT"と題して1982年のモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演したブルースメンの夜となった。この時のライブがアトランティック・レコードから"BLUES EXPLOSION"と題して発表され、全米レコーディング協会(NARAS)のグラミー賞を受賞したのである。初日のトップはルーサー・”ギター・JR”ジョンソンのタイトなブルースで幕を開けた。当時はボストンでオール白人のバックバンド”マジック・ロッカーズ”を率いて活動中で8ビートの"I'm ready"や"Walking the dog"など7曲を披露、パワフルなステージを展開してくれた。感覚的にはロックに近いけれど、次世代のブルースという感じでそれはそれでいいとも思った。

次に登場したのはジョン・ハモンド Jr.で、ウエストサイドでスライド・ギタリストとして鳴らしたJ.B,ハットーを師として仰ぐ白人ブルースマン。生ギターをハーモニカでカントリー・ブルースを得意としている。以前"Little Giant"というダスティン・ホフマン主演の、インディアンに育てられた白人を主人公にした映画でサウンド・トラックを担当したことがあり、その生ギターテクニックは絶妙だった。こうやって少しずつ世代交代と共に非黒人に(僕等もそうだが)受け入れられ、発展していくんだなと思った。

何かと話題の多いシュガー・ブルーが3番手として登場した。本名をジェイムズ・ホワイティングといい、出身はニューヨークで、ロンドン、パリでストリート・ミュージシャンをしながらハーモニカの腕を磨き、ローリング・ストーンズの"Missing you"でハーモニカを担当、一躍注目されるようになった。現在はシカゴでバンド活動を続けている。この人の方向はブルースを飛び越えてフュージョン/ジャズの部類に入るだろう。この日も"Help me"をブルース・フィーリングたっぷりに演奏、得意の細分化されたフレーズと高音を意識的に多く使うアドリブの部分は明らかにジャズとして捉えられていた。80年代のブルースマンはこんな展開になるのかな~という予感がしたが、僕としてはいまいち感動という沸点までは到達しなかったのを覚えている。

続いて女性ボーカリストの重鎮、ココ・テイラーが現れた。"Queen of the blues"と紹介された彼女は、純白のフリルの付いたきらびやかな衣装で2年連続の出場、エタ・ジェイムズの"I'd rather go blind"、18番の"Wang Dang Doodle"、そして"Hey, bartender"と続くと、会場の興奮はピークに達し、この日唯一のスタンディング・オベーションを受けていた。最後に、彼女の横に5ワット位のギターアンプが置かれ、ミニサイズのフライング・V(おもちゃ)を抱えた彼女の孫が出てきて、会場から拍手を浴びていた。

この日のトリはテキサスのオースティンから登場したスティービー・レイボーンのトリオだった。ジミヘンをかなり意識したフレーズで、アルバート・キングの"Born under the bad sign"を始め、トリオとはいえども大爆音なのだがメロディアスな流れをきちんと伝えるギターワークで観客の喝采を浴びていた。当時デビッド・ボウイのコンサートにも参加していてブルースの枠を超えた凄まじい切り込むようなギターの音は最前列の写真ブースにいた僕のオシリにドンと響いた。この5年後に無念ながらヘリコプター事故で帰らぬ人になった彼だが、敢えて、ラッキーだったと言っておこう。

2日目のトップはエディー・クリアウオーター。昨年のサンフランシスコ・ブルース・フェスティバルにも出演した彼は、シカゴを飛び出して、トップアーティストの仲間入りをしつつある。この日はトレードマークのインディアン・チーフ羽飾りを被って華々しく登場、"Blues in the breakfast","A girl from Nashville"で会場を盛り上げた。キャリー・ベルを始めとするハリントン・ファミリーの一員で、ブルースだけでなくロックンロールやカントリー&ウエスタンの曲を好んで取り上げるハミダシブルースマンでもある。前年の7月に、僕等のアパート近くで開催された町内会の祭りでビデオに収めることが出来た。温厚でショーマンシップ旺盛の彼は、”日本からシカゴのブルース・ミュージシャンを紹介しにビデオを撮りに来ました。”と自己紹介すると、”どんどん紹介してくれよ!”と気さくに許可を下ろしてくれたことを覚えている。

次のプログラムは、興奮のウエストコースト・ジャムである。一番手に女性シンガー、マジー・エバンスが顔見世、300ポンドはありそうな偉丈夫の身体を揺すって、力一杯歌う姿に圧倒され、何を歌ったか記録をとるのを忘れてしまった。二番手はロウエル・フルソン。この数年前、当時の六本木ピットインでのライブ録音を残している。静かな中に、何者にも迎合しない彼のひたむきなブルースへの愛着が感じられて、ググッと1メートル前に引きずられてしまった。ギターの音は相変わらず洗練とは程遠いが、この何も飾らない音が良い。ゆっくりと噛みしめるように"Tramp","So long","Black kight"など、お得意のナンバーを披露してくれた。

次に御大ピーウイー・クレイトンの登場、おそらく生前最後のライブパフォーマンスだったのではないだろうか。"Texas Hop","Down home blues",お得意の"Blues after hours"等、控えめながら50年のキャリアを充分感じさせるパフォーマンスだった。ラストはエディー・クリーンヘッド・ビンソン、このプログラム中最も大きな拍手を浴びていた。自分の頭のことを歌った"They call me Mr. Clean Head", "It was a dream."などの名曲を唄った彼は、そのサキソフォンと共に、枯れたブルースを夕暮れの湖岸に響きわたらせた。このセットのバックバンドはシカゴのミュージシャンから成る即席バンドで、ドラムスにオッディー・ペイン、ピアノがアーウイン・ヘルファー、そそて3人のブラスバンドとウッドベース、左手のギタリストだった。ウエストコーストの風をウインディー・シティに運んでくれて感激だった。

Chicago Pictures II 011
ウエストコースト・ジャムセッション

3番目のプログラムは"Chicago Blues Jam"。"Don't take advantage of me"のイントロが始まると、袖から走るようにして出てきたロニー・ブルックスは、愛用のギブソン・SGを片手に派手なステージを繰り広げた。ルイジアナのバイユー地方出身のロニーは、最初ギター・Jrという名でデビュー、リトル・リチャードなどのロックンロールやルイジアナのスワンプ色濃い、独自の土臭い音作りが面白い。その荒々しいギターアクションとオーバーアクション気味のステージは、あくまで観客を楽しませようとする彼の姿勢が充分表れており、ブルース=ダンスミュージックと言う概念の表出に他ならない。

二番手は、”日本のファンからMellow Guitar Geniousと評されている...”と紹介されたFenton Robinsonが登場、愛用のGibsonフル・アコースティックから繰り出す、えもいわれぬ美しいギタートーンは、会場のブルースファンを即座に彼の世界へと引き込んでいった。"Crazy Loving", "Loan me a Dime", "Going to Chicago", "My Girl"等の選曲も素晴らしかった。レイド・バックした、時にジャズのフレーズを取り混ぜた、落ち着きの或るブルースは、彼ならではの世界だった。 日本にはファンの多い彼だったが、実はこの10年前に来日の予定があった。しかし、来日直前に交通事故で人を殺めてしまい、法務省の決定によってその後も入国禁止になてしまった。実直な彼は3年の刑期を無事勤め上げたが、その後も日本の土を踏むことは無かった。麻薬や殺人などの罪ならともかく、業務上過失致死でブラック・リストに載るなんて、法治国家とはいえ、その当時は鎖国状態だなどと思っていた。もし彼が白人の実業家で有能な弁護士を雇える程のステータスがあったなら、この問題は何事も無く片付いていただろうな~と思ったことを覚えている。ここにも、リロイ・ジョーンズがその著書”Blues People"で描いていたブルース衝動が表しているような、一般黒人大衆の置かれている厳しい現実が見え隠れしていた。
"Everywhere you look at, still call the Blues."(Johnny Taylor)

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オーティス・ラッシュ


ギター・バトルのトリはオーティス・ラッシュだった。彼の横顔はこれまで多くの人々に語られてきた。コブラ、チェス、両レコードに刻み込まれた珠玉の名曲は、ブルースファンのみならず、ロックファンをも魅了している。しかし、その後の消極的な活動が災いし60年代半ばでほぼ前向きな姿勢を保てなくなってしまったこの背景には、ブルースがブラック・パワーの時代にそぐわなくなり、ソウル、ディスコ・ミュージックの流れに押されて、自分のバンドを維持するのが困難だったともいえる。これ以降のオーティスは、皮肉にも白人の間で起こったブルース・ブームによって黒人街から外へ出て活動するようになった。このことは、よりメジャーな世界へと羽ばたく良い機会だったのだが、僕は、自己の音楽の方向性も定まらないまま他人に動かされて行ったレコーディングは一時停滞したという印象を持っていた。ただ、ブルース界では彼の存在は未だに大きい。久々に大きなフェスティバルにその雄姿を見せた彼を、聴衆は大きな拍手で迎えた。
グレーの三つ揃えにカウボーイ・ハットを被って愛用のギブソン345を抱えて、最大のヒット"All your love", を皮切りに、"Mean old world","I can't quit you, baby"などを披露、静かな中にも何かを訴えかけているような重厚なボーカルは、まだまだ現役で通用することを証明していた。


Chicago Pictures 026
ジョニー・テイラー

この日のトリはソウルの大御所、ジョニー・テイラー。
丁度マラコ・レコードへ移籍したばかりで、"That's America."がラウンジでよく架かっていたころである。10人編成のオーケストラを従えて、大ヒット曲の"Who's making love?"から唄い始めたジョニーは、黄色いジャケットとタイを脱ぎ捨ててステージ狭しと動き回った。"After hour joint","Disco Lady","Cheaper to keep her"そしてSTAX時代の名曲、"I've got to love somebody's baby."を唄い始めると黒人女性は総立ちで、会場は興奮のるつぼと化した。そばにいた小錦のような体のおばちゃんは1フィートも飛び上がり、歓喜の涙を流していた。今の黒人達、特に女性の心を捉えて離さないジョニーの音楽性は、必ずしも総てがブルースではないが、現在の黒人達がブルースシンガーと言えば必ず彼の名前を口々に出すほど、しっかりと黒人社会に根付いていることは間違いない。


そして最終日、トップを飾ったのは”ビッグ・ツイスト&メローフェローズ”で、300ポンドもありそうな身体を揺らしながら熱唱していたが、客席の乗りは今一つ。実力はあるのだが、そのブルースとソウルの中間辺りというスタイルのせいだろうか、ダーティーでもなし、かといって歌唱力がずば抜けているわけでもないしという所だった。ただ、バンドのまとまりはよかったので、一曲ヒットが出れば上に行ける実力があると思った。

次はルイジアナからザディコ・ミュージックの大御所であるクリフトン・シェニエが登場、足を骨折したというので心配したが、ステージの端に用意された椅子にたどり着くまで補助の杖を持ってゆっくりと歩く姿は少し哀れで、歌も迫力不足、アコーディオンも控えめで曲のエンディングが全く決まらないという悲惨なステージになってしまった。この分では昨年出演したバックフィート・ザディコにKing of Zydecoのタイトルを奪われそうだった。

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リトル・ミルトン

次に、83年来日してそのBlues’Soulをたっぷりと味あわせてくれたリトル・ミルトンが、10人編成のバンドを引き連れて登場した。来日時に着ていたのと同じ黒のラフなスーツにサングラス姿のミルトン氏、例によって愛用のギブソン345を脇に立て掛け、"Let it be me", "Come back kind of loving", "Age is nothing but a number"等、会場の女性を意識した選挙区で、ギターを持ってからの"Little Bluebird"でブルースファンを湧き立たせていく。彼ならではの計算された構成は心憎いばかりで、最後はこの頃のノリノリ曲、"Blues is alright"できめ、実力振りを発揮していた。シカゴの黒人街では最も人気のあるブルースマンだった。

Chicago Pictures 025
エタ・ジェイームズ

次に登場したのはエタ・ジェイームズ。当時はLAに拠点を構えていたが、以前はシカゴで活躍していた。僕は"Etta is better than ever"というレコードでしか知らなかったが、名曲"I'd rather go blind"を始め大迫力のボーカルでエモーショナルに歌い上げ、会場総立ちの拍手を受けていた。バンドはピアノを入れた4人のコンボバンドながら、前に出たリトル・ミルトンを上回る迫力だった。

さて、フェスティバルの締めはバディ・ガイ&ジュニア・ウエルズ+43rd ブルースバンドなどによるサウスサイド・ジャム・セッションで3日間の饗宴が締めくくられた。僕にとってバディ・ガイはデルマーク・レコード(日本ではトリオが配給会社だった)のジュニア・ウエルズとの競演のレコードが初めて買ったブルースのレコードだったし、"Hold that Plane"や"First time I met the blues"の緊張感溢れる、鋭い切り口のギターを尊敬していた。しかし、その名声と実力にも拘わらず、彼のサウスサイドの店、チェッカーボードで何回か見たことがあったが、残念なことにブルースを真面目に演奏しないことで当時黒人街では一番見る必要のないブルースマンと思っていた。今回のステージでもPAが悪いだの、演奏中にこの曲は好きじゃないだの、急に途中で演奏を止めたり、といった、チェッカーボードで見た演奏スタイルを繰り返していた。ゲストの"B.B.オーダム”のボーカルを途中で無理やり止めさせたのを見て、僕は中座した。ショーマンシップは一つ間違えると観客軽視になるという見本である。 事実バディーのステージ途中でぞろぞろと家路を急ぐ客が目立った。良い時を知っているだけに、残念だった。

今回はブルースマガジンの”JUKE”からの取材ということでシカゴ市役所に交渉して特別に許可をもらって報道ブースに入れてもらったので、幸運にもステージから3メートルくらいのところで写真を撮ることができた。警察の発表によると入場者は3日間で20万人だったそうで、全米一のフリー・ブルース・フェスティバルになったようだ。この一部はテレビでもニュースなどで報道され、黒人市長のハロルド・ワシントンの一大企画として大きく扱われた。事実、初日のステージに先立って現れた彼は、"Chicago is the world capital of the blues"と宣言した。この後、同じグラントパークでシカゴ・ジャズ・フェスティバル、サウスサイドではトミー・ドーシー・ゴスペル・フェスティバルが開催されるなど、シカゴ市長室は前年を上回るフリーコンサートを開催していた。

3日間のブルース漬けから開放されてほっと一息、写真がうまく撮れたか心配だったが結果はまずまずで安心した。全体的に感じたのは、シカゴの黒人街で聴ける音とはかなり異なったものだったということで、非黒人にも支持される質と”ブルースらしさ”を提供しなければならなかった為に、かなりヨソイキな格好をしたグループ、演奏が目立った。フェスティバル中も、ウエストサイドへ行くと多くのラウンジでは、それこそ華やかさとは程遠いミュージシャンが小遣い稼ぎをしていたし、黒人街からフェスティバルに出掛けた人はほんの一握りだっただろう。彼らには彼らの音楽があった。 
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